戦後70年談話で糞新聞朝日が懲りずにまた発狂    2015.8.18    



 「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」 糞メディアやこれに煽られた集団ヒステリー患者どもから謂われの無いヘイトアクション/ヘイトスピーチを受け続けて、自身のカラーを抑制せざるを得ない状況に追い込まれていると報道されていた安倍晋三さんからこれほど力強い言葉を聞けるとは想定外だった。

 14日夕刻に発表された戦後70年安倍談話は、周到に練り上げられ国内外に広く受け入れられる内容だった。早速14日米国家安全保障会議(NSC)のプライス報道官が 「 We welcome Prime Minister Abe's expression of deep remorse
for the suffering caused by Japan during the World War U era, as well as his commitment to uphold past 
Japanese government statement on history.・・・  (安倍首相による先の大戦で日本がもたらした惨禍に対する深い反省の表明と、歴史に関する過去の日本政府の見解を継承する旨のコメントを歓迎する・・・)」と、談話を歓迎する旨の声明を発表する一方、日頃、安倍首相に対して批判的なワシントンポスト紙も14日付の社説で「・・・ Mr. Abe's statement is 
far more conciliatory and less than nationalistic his critics feared it would be.・・・」( 談話は、安倍首相を批判する人たちが懸念していたものよりも、はるかに融和的であって、しかも国粋主義的な面は少なかった)」と談話に対して肯定的な論評を加えている。

 翌15日付の社説で読売新聞は「先の大戦への反省を踏まえつつ新たな日本の針路を明確に示したと前向きに評価できよう」と述べ、また日経新聞は「・・おおむね常識的な内容に落ち着いたことを評価したい」と論評して、それぞれ談話を評価している。共同通信社が14、15両日に実施した世論調査では、談話を「評価する」とした回答は44.2%で、「評価しない」の37.0%を上回ったという。反日糞メディアのネガティブキャンペーンに躍らされた「病的な安倍嫌い」が日本人の四人に一人は存在するであろうことを前提にすれば「評価する」の44%は驚異的な数字であり、あの喧(やかま)しいコリアンでさえ談話に対して神妙な態度を見せていることも併せて考慮すれば、談話が万人に広く受け入れられるものであったことは確かである。


 ところが、この常識的な談話に狂ったように噛みついている反日メディアがあるのだ。もちろん我らが糞新聞朝日だ。15日付の社説の表題は「戦後70年の安倍談話−何のために出したのか」である。開口一番に「いったい何のための、誰のための談話なのか」と吠え、後は例の如く、安倍談話をケチョンケチョンに批判するのだ。糞新聞は「日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされた・・」、だから「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と主張する。つまり日本が侵略と植民地支配を行ったことを自ら宣言して、反省とおわびを述べない限り、安倍談話を出す意味はないと糞新聞はエラそうに宣うのだ。謝罪が間接的表現でなされたことを理由に談話を全否定してしまうのだから尋常ではない。まさに狂人の戯言(たわごと)としか思えないとんでもない言い草だ。


 世界広しといえども、「侵略」と「植民地支配」を認めて、謝罪した国家は過去から現在に至るまで、唯一日本だけだ。コリアンが「聖人」と崇めているらしい西ドイツのブラント元首相でさえ、ポーランド訪問の際に「ユダヤ人迫害」については謝罪したが「ポーランド侵攻」については一切、謝罪の言葉を述べなかった。「侵略」の定義は国際的にも未だ曖昧で、左巻きのあの極左じいさん村山富市翁さえ衆院予算委員会で「侵略の定義はない」という趣旨の発言をしているほどだ。

 敢えて定義するのであれば、長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)女史の「戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルである」(3/17付産経新聞のコラム「正論」)や、伊藤隆(東大名誉教授)氏の「侵略の定義というものはない。唯一成り立ちうる定義があるとしたら『侵略国家とは戦争に負けた国である』(歴史通5月号)」という言葉が適切だろう。常識的な国家であれば、侵略を認めて謝罪することなどあり得ない。植民地支配についても同様だ。どの国家も謝罪していない世界で、唯一日本だけが、謝罪をするとなれば、日本は謝罪をしなければ収まりがつかないほどの極悪非道を行った国家だと当然に見なされるだろう。

 にも係わらず、日本は極左じいさんが仕掛けた「村山談話」でアッサリと謝罪してしまったのだ。村山談話の罪深さは、この一点にある。安倍晋三さんが自らの談話を出したいと意気込んだのも、この罪深い村山談話の呪縛から日本国民を解放したいという願望からだろう。糞新聞はこの安倍首相の意図を知り抜いている。だからこそ社説にこの狂文を掲げて無垢な日本国民を煽り、反安倍に誘導しようという魂胆なのだ。「安倍晋三を葬る」こと、これこそが未だに糞新聞の論説委員の夢なのだ。


 「・・安倍談話−何のために出したのか」と息巻いて書き始められた糞新聞の社説だが、安倍憎しが昂じていつの間にかわけのわからない世界を彷徨し始める。


 「首相は『私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』と述べた。確かに、国民の中にはいつまでもわび続ければよいのかという感情がある。他方、中国や韓国が謝罪を求め続けることにもわけがある 。」


 社説にある中学生の作文のようなこの一文はまさに傑作だ。「・・わけがある 」には思わず吹きだしてしまった。であれば、中韓にどんな「わけがある」のか、この社説にしっかりと書いてもらいたい。「いつまでわび続ければよいのか」という国民感情の存在を認識しているのであれば、これに対する糞新聞朝日としての処方箋を明らかにすべきだ。他人の批判ばかりして自らは一切、処方箋を示さない。いまどきの左巻き連中は、全部これだ。

 中学生の作文の過激度はさらにエスカレートする。糞新聞が自ら火をつけた靖国問題と慰安婦問題を持ち出して、解決の努力が足りないと喚(わめ)き、談話とは何ら関係のない拉致問題や北方領土問題にまで言及して、進展していないと詰(なじ)り、最後は「出す必要のない談話に労力を費やしたあげく、戦争の惨禍を体験した日本国民や近隣諸国民が高齢化するなかで解決が急がれる問題は足踏みが続く」と、全く意味不明な一文を挿入した上に、「いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれりである。その責めは首相自身が負わねばならない」と締めくくるのだ。常軌を逸した激しい表現で「悪いのは全部、安倍晋三だ」と言いたい気持ちは分かるが、せめてもう少し説得力のある文章にまとめて欲しいものだ。30人もいる糞新聞の論説委員の総意であるはずの社説としては何とも侘びしい。


 糞新聞の反日のお友達である東京新聞や毎日新聞は、糞新聞に比べてはるかに冷静な社説を掲げている。唯、糞新聞朝日だけが突出して狂ったように過激なのだ。安倍晋三さんとの対立軸を鮮明にしようという意識が強すぎて、かっての政権与党である民主党が、いまや旧社会党と何ら変わりのない左翼政党に成り下がってしまったのと同様に、糞新聞朝日も「安倍憎し」が昂じて、今や赤旗新聞をはるかに超えた極左の領域を徘徊しているように思える。


 葬式を出したはずの安倍晋三さんが不死鳥のように蘇って、金剛力士の如く糞新聞の眼前に仁王立ちしているのですから、糞新聞の論説委員が狼狽えるのも無理からぬところかも知れませんね。ここは「安倍の二度目の葬式もウチで出す」などと鼻息を荒げずに冷静になって欲しいものです。退職した若宮啓文さんは何をされているんでしょうね。「安倍の葬式に囚われるな」と後輩たちに引導を渡してやったら如何でしょうか。


 15日付読売新聞の「よみうり時事川柳」に面白い句が選ばれているのを見つけましたよ。「欧米の侵略歴史問われない 」です。時宜にかなった思わず手を叩きたくなるような佳作ですね。いつの日か糞新聞朝日の川柳欄にも、こんな風に趣のある句が優秀作品として掲載される日が来ることを楽しみに待ちたいですね。エッ、そんな日が到来する前に糞新聞自体が潰れているって? アリャ。


                    
    「安倍の葬式」に拘泥するな
    と論説委員に引導を渡して
    くださいよ! 若宮さん。



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