「ゴロニャン」の復活                     2015.4.12    



 東京株式市場の日経平均株価が15年振りに2万円の大台を回復して証券取引所に歓声が上がった4月10日、海を隔てた隣国(南コリア)は、相変わらずの日本批判で喧(やかま)しい。9日付の中央日報(電子版)の記事によると、東京国立博物館が所蔵する4〜6世紀の朝鮮半島三国時代の金銅翼状冠飾などの遺物8点が日本の文化庁のホームページ上で「任那時代」のものであると説明されていることや「任那日本府」という呼称を使用した日本の中学校教科書が検定に合格したことを槍玉に挙げて、南コリアの李完九(イ・ワング)首相が「6世紀まで百済・新羅・加耶を日本が支配したという所謂(いわゆる)『任那日本府』説に伴う歴史歪曲であり、絶対に許せない」と日本を激しく批判したという。中央日報によると、このような問題で首相クラスが他国を非難するのは異例のことらしい。

 1960年代末までに高校を卒業した私たちの世代は、中学・高校の歴史教育で、いにしえの時代に日本(倭国)は朝鮮半島南部の任那(みまな)に日本府と呼ぶ統治機関を置いてこの地域を支配し、「任那の三毛猫がゴロニ(562)ャン」の語呂合わせで記憶した西暦562年にその日本府が新羅によって滅ぼされた後も、「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れる西暦663年まで、倭国はこの地域一帯に隠然とした政治的影響力を及ぼしていたと教えられた。


 ところが私たちの世代にとって常識とされた「ゴロニャン」は、私たちの子供の世代以降には通じないらしい。我が家の本棚の隅に埃だらけの状態で置かれていた山川「詳説日本史図録」(2008年版)を取り出してみると、確かに4世紀の朝鮮半島の勢力図(p1)や6世紀の歴史年表(p2)などに「任那」の文字は存在せず、「任那」に相当する箇所が「伽耶(かや)[加羅(から)]」に置き換えられている。もちろん「日本府」という単語も全く見当たらない。


             
      p1 朝鮮半島の勢力図       p2 歴史年表(6世紀)



 記紀(古事記/日本書紀)に基づく戦前の皇国史観を全否定する史学界の潮流に押し流された日本の歴史学者や古代史愛好家たちが、チャイナの歴史書に登場する「卑弥呼」と「邪馬台国(当然に「ヤマト国」と読むべきところをわざわざ「ヤマタイ国」と呼び変えて)」に異様に執着して、やれ邪馬台国は何処にあったのか・・?、卑弥呼は誰か・・? などと、愉しんでいる姿を、古代史嫌いの私はバカバカしく眺めていたが、どうやら状況は、ばかばかしいでは済まされない深刻な事態にまで進展していたようだ。

 

 1963年に北朝鮮の金錫亨が発表した「朝鮮半島の高句麗・新羅・百済の三国が日本列島に植民地を持っていた」という荒唐無稽な「分国論」の奔放さや、70年代以降の旧任那(伽耶)地域で進められた遺跡発掘調査の結果に刺激された日本の歴史学者たちは、記紀に基づく皇国史観を意図的に否定した反動からか・・、自説を自由奔放に展開するファンタジーの世界に突入してしまう。彼らは、日本を貶めてその快感を愉しむ左翼/リベラル派の歴史学者としての本能からか、あるいは戦前・戦中の35年間に渡る植民統治に対する贖罪の気持ちからか、はたまた加耶地域の発掘調査の情報に容易にアクセスするためにか・・、いずれにしても「任那日本府は朝鮮半島の植民地支配を正当化する歴史観であり断じて許容できない」とするコリアン歴史屋の主張に媚びて、瞬く間にコリアンに迎合する歴史観を形成して行くのである。70年代には、日本書紀にある「任那日本府」は、「百済本紀」に登場する呼称で、当該「本紀」は百済が倭国に迎合的に書いたものであって「日本府」は統治機関としての体(てい)をなさない倭人の政治集団であったとか、倭国が派遣した単なる使者だったとする説などが、彼ら日本の歴史学者から主張され、結果として古代史の学界では「任那」という言葉を使うことさえ憚(はばか)られる状況にまでなってしまうのだ。

 

 さらには「先進文化はすべて朝鮮半島の百済を経て、未開で野蛮な倭国に伝えられた」というコリアンの主張に沿った歴史ファンタジーが次々に創作され、あげくは「応神天皇は百済から渡来した」などと、まことしやかに唱えるとんでもない日本人歴史屋まで現われる始末となるのだ。


 しかし、@広開土王碑文には「倭が百済・新羅を破って臣民とした」と記されているという厳然とした事実があり、またA旧任那が存在した地域から日本で独自に発展した前方後円墳が多数発見され、その造営年代が日本より後期であること、さらにはBチャイナの複数の歴史書に百済・新羅が登場する以前から朝鮮半島内に倭国が存在し、その地域を実効支配していたことが推察される記述が存在することなどから、日本書紀の「任那日本府」を全て否定することはできないということが当時の学界の常識でもあった。1990年代に入って保守派の言論人が、不甲斐ない左翼・リベラル派の歴史学者たちを糾弾し始めたのは当然の成り行きである。「新しい歴史教科書をつくる会」などが結成されて活動を開始したのはこの頃である。西尾幹二氏が、その著書「国民の歴史」で、「邪馬台国」論のベースになるチャイナの魏志倭人伝を正確な史書と認定しながら、日本人が編纂した日本書紀を皇国史観であるからという理由で一方的に否定するは、日本の左翼の政治的偏向であり、歪んだ中国拝跪(はいき)思想の反映だと主張しているというが、私はこの西尾氏の考え方に全く同感である。安倍政権の下で漸(ようや)く「任那日本府」が一部の教科書に復帰したことを大いに歓迎したい。


 未だに唯我独尊のファンタジーの世界を彷徨しているコリアン歴史屋との論争がいかに骨が折れるものであるかは、論争で歯を三本失ったと公言する古田博司氏(筑波大学)の「醜いが目をそらすな、隣国・韓国!」(WAC BUNKO)に詳述されている。公正な歴史観を持った大勢の日本人古代史研究家が育成され、コリアンの誹謗・中傷にめげずに毅然と対応してくれることを大いに期待したいものです。そして近い将来、全ての日本史の教科書に「任那日本府」が登場して、受験対策本に「ゴロニャン」が復活することを楽しみに待ちたいと思います。


 10日、ネット検索で近くの市立図書館に大平裕氏が書いた「知っていますか、任那日本府」(PHP研究所)が存在することを知り、早速、貸し出し予約を入れました。この図書には、朝鮮半島の旧任那地域で発見された古墳が前方後円墳であることを認めたくないが故に、古墳を改竄(かいざん)したコリアン歴史屋の手口も紹介されているようです。数年前、コリアン歴史ドラマの「・・チャングム」でチェ一族の女親分が「・・証拠が無ければ、造ればいい」と指示を出す場面を目の当たりにして思わず背筋が寒くなったことを思い出しましたよ。ウヒャ。




                     トップページに戻る






  
  







































inserted by FC2 system