支持率回復を目論んだ李大統領の竹島パフォーマンスは、韓国民の喝采を受けてその目的の一部を達成したようだが、天皇陛下に対する礼を失した李大統領の言動を特に問題視する日本側の報復行動のメニューが次々と挙げられるにつれて、韓国メディアには「こんなはずではなかった」の恨み節が目立つようになってきている。20日付の朝鮮日報は「日本は歴史、国民感情、国内政治を独島問題に利用するな」と題する社説を掲げて、大人げなく舞い上がった自国の大統領を諫めることもせずに日本に矛先を向けて逆ギレし、さらには李河遠(イ・ハウォン)政治部次長の「【記者手帳】天皇への謝罪要求、何が間違っているのか」という開き直ったタイトルの記事を載せて恨み辛みを吐露している(【記者手帳】の全文を原文のまま別掲する)。
両記事には、朝鮮半島に生まれ育ち、陳腐な反日歴史教育を受けた無教養な韓国人が口にする言葉と同じ類いの文字が並んでいる。書くのもおぞましいが敢えて再掲すると、社説では「天皇が韓国に対する侵略と抑圧の最高責任者」と決めつけ、記者手帳では「天皇は特別A級戦犯だ」と吠えて、「天皇はドイツのブラント首相のように膝をついて謝罪する写真を歴史に残すべき」だとまで言い張る。その根拠としては「朝鮮半島を植民地支配し・・、数百万人の朝鮮人を戦場、炭鉱、軍需工場へ送り出し・・・、韓国の若い男性を銃の盾とし、若い女性を日本軍の性的奴隷とした・・」と自らが捏造したお決まりの妄想朝鮮史を持ち出すのである。
戦前の大日本帝国憲法下での国務は、憲法に「国務大臣は天皇を補弼(ほひつ)し、その責に任ず」とあるように実質的に国務大臣が担っていた。朝鮮半島の統治に関しては、朝鮮総督府がこれを担っており、昭和天皇には朝鮮半島の植民地支配に対する直接的な責任はない。先の大戦では、朝鮮人は徴兵の義務を課されておらず、軍人として徴用されたのは、数十万人の熱烈愛国志願者の中から選ばれた毎年僅か数千人の朝鮮人だけであり、その総数は1943年時点で2万人にも及ばない。大戦での朝鮮人の軍人・軍属を合わせた死亡・行方不明者数は、日本人の死亡・行方不明者数の百分の一にも満たない。「若い男性を銃の盾とした」は空文に等しい。昭和34年7月13日付の朝日新聞は「戦前(昭和14年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人であり、終戦直前(昭和20年)には200万人となった。増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの30万人は、大部分工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である」と書いている。前述の「数百万人の朝鮮人を戦場、炭鉱、軍需工場に送り出し・・」の記事は韓国歴史教科書の定番の表現かも知れないが、全くの捏造である。そして「若い女性を日本軍の性的奴隷とした」行為の第一義的な責任者は日本軍に取り入って利益を貪った朝鮮人の女衒である。史実の証拠となる歴史的資料に素人でも容易にアクセスができるネット時代には、嘘八百を並べれば、化けの皮は直ぐに剥がされてしまうのであるが、一流を標榜していながら中身は三流の韓国メディアは、これに全く気づいていないようである。
「他人に虐げられた辛い過去をもつ人は、その過去を人に語るのを憚る(はばかる)。本人にとってその過去は恥であり、人前でその恥を語ることはできない」というのが日本人の美意識であるが、この心情を朝鮮半島人は持ち合わせてはいない。彼らは恥も外聞も無く、過去を意図的に捏造してまで「やられた、やられた」と大騒ぎして「謝罪を要求する」のである。日本人であれば、加害者側から一度、謝罪を受け、その代償を供与されたのであれば、公の場では、それ以上の償いを求めることはしない。しかし、朝鮮半島人は違う。戦時売春婦問題での河野洋平内閣官房長官の所謂、河野談話による謝罪は、却って韓国側の謝罪要求をエスカレートさせ、日本と日本人に対して取り返しのつかない攻撃材料を韓国側に与えてしまった。さらに学習能力が全く欠如した民主党政権は、韓国併合100年の首相談話で「痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明」して謝罪した上、韓国側が強く求めた朝鮮王朝儀軌を引き渡し、通貨スワップ協定の融資枠を130億ドルから700億ドルに拡大する配慮まで行ったが、李大統領の竹島訪問で見事に裏切られた。
1910年の韓国併合時に朝鮮統治の主管官庁であった朝鮮総督府に対して、朝鮮人に対処する上での心構えを日本政府が通達として示したものと言われるマニュアルがネット上を賑わしている。15項目あるが、このうち3項目を抜き出したものが下記である。
・朝鮮人は虚言を弄する習癖があるので絶対に信用せぬこと。公に証言させる場合は必ず証拠を提示させること。
・朝鮮人には絶対に謝罪をしてはいけない。勝利と誤認し居丈高(いたけだか)になる気質があり、後日に至るまで金品を強請さるの他、惨禍を招く原因となる。
・朝鮮人は恩義に感じるということがないため、恩は掛け捨てと思い情を移さぬこと。
まさに言い得て妙である。当時の日本人の洞察力に敬服すると同時に、100年を経ても全く人間的に成長せず、未だに当時と同じ習性を保ち続ける朝鮮半島人の異常さに恐怖心を覚えるのは私ひとりだけではないでしょう。
話が逸れるが、明治の文化人「福沢諭吉」は「脱亜論」で朝鮮を侮蔑し見捨てたと韓国人から誤解され、豊臣秀吉、加藤清正、伊藤博文らと並んで韓国人から毛嫌いされている人物である。韓国の歴史教科書では、韓国は日本の植民地支配によって「文字を奪われた」と教えている。日本語学習を強要してハングルを学ばせなかったと言うのである。史実は逆で、朝鮮半島で殆ど使われることがなかったハングルに着目して朝鮮人の啓蒙を担う「文字」として世に広めたのは、福沢諭吉とその弟子の井上角五郎である。彼らは朝鮮初の近代新聞である「朝鮮旬報」の続刊であり、漢字だけで書かれた「漢城週報」に初めてハングルを導入して、漢字とハングルが混在する「ハングル新聞」を創刊したのである。これが契機となり、ハングルの朝鮮語字典の発行、朝鮮総督府によるハングルを教える義務教育の普及へと発展する。ハングル普及の糸口は韓国人が忌み嫌う福沢諭吉とその弟子、そして諭吉の良き理解者であった伊藤博文によってもたらされたのである。「文字を奪われた・・」は虚言症の持病がある朝鮮半島人の作り話である。
福沢諭吉は「脱亜論」の約3週間前に「朝鮮独立党の処刑」と題した新聞論説で、朝鮮の甲申政変後に閔妃らが開明派の金玉均とその同志を処刑したことを非難している。この論説の後編の要約が「脱亜論」を形成しているとの指摘もあるが、その後編に次の言葉がある。「我輩は此国(朝鮮)を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と言わんと欲する者なり・・」
野蛮を通り越して「妖魔悪鬼の地獄国」とは、100年を隔てた現在の韓国にも、すっきりと当てはまる素晴らしい形容です。さすが、福沢諭吉ですね。